慈光寺の歴史

開創のころ

参道を行く  当寺開山は、寺伝によれば 《仁安3年(1168)天台宗として開山されたが、永仁4年(1296)時宗二祖他阿真教上人の勧めをうけて時宗に転宗し、久慈氏の菩提寺となった》とある。
 開山中尊寺、青龍山瑞巖寺、恐山菩提寺、八葉山天台寺など、聖武帝時代の行基、桓武帝時代の円仁(慈覚大師)の布教により東北地方に天台宗の寺院が一山寺院の型式をとりながら次々に建立された。なかでも平泉文化を築いた、藤原三代は陸奥・出羽両国の押領使・鎮守府将軍に任じられ仏教王国を築いた。『吾妻鏡』に六郡を管領すとあり、南は白河の関、北は下北半島迄治めたという。そして一万余の村ごとに寺を建てようとし、灯明料として田地を添えて寄進し、奥羽の各地に十一面観音や薬師如来を祀り天台宗の寺院を造営したと伝えられる。久慈地方も藤原氏の支配下にあり遍照山海徳院慈光寺の創立もその影響をうけたものであろう。

甲斐源氏南部と時宗

 文治5年(1189)源頼朝は平泉を滅ぼし、甲斐源氏の新羅三郎義光(源義家の弟)を祖とし、加賀美二郎遠光(甲斐・山梨県で最初の臨済寺院を開いた)を父とする三男の南部(加賀美)三郎光行(信濃三郎とも呼ばれた)に糠部五郡を与えた。その五郡は岩手県北から久慈、秋田県鹿角郡を含む青森県南地方と思われる。
 承久元年(1219)八戸浦に73名の臣と共に光行は鎌倉の由井浜より船で来た(奥南旧指録)とあるが、すぐに糠部に下向はしなかったと思われる。しかし、三戸(さんのへ)に南部藩を、六男の実長(日蓮宗身延山久遠寺開基)を祖とし、四代目の師行が建武元年(1334)八戸根城南部を開いている。
 やはり光行の三男、七戸太郎三郎朝清がこの久慈の地を治めるにあたり久慈氏と称した。
 祖、新羅三郎義光は熱心な念仏行者であり、甲斐の氏神八幡神の本地仏が阿弥陀仏であった関係もあり、甲斐源氏は代々阿弥陀信仰に厚かった。後年武田信玄が開いた善光寺もその通りである。
 八戸藩七代目南部信光は甲斐に居て南朝方に属し、手柄あり甲州(山梨県)神郷の地を賜り、その地に、時宗の浄阿弥上人に帰依したことから、西沢山神郷寺を正平22年(1367)建立し、同年、南朝の北畠顕家が国司に任命(後に鎮守府将軍)されたことから同行し、八戸に下向したことより、その阿弥陀仏をもって時宗海浮山仏浜寺を八戸に開山、寺は後年、八戸藩が遠野に移封した時に八戸藩22代直義公と共に遠野で寛永4年(1627)金円山常福寺となる。 山門の傍らに咲くあじさい

甲斐源氏南部と時宗

 三戸南部の十八代時政の二男(一説に四男)信実は旧来の久慈の大川目に八日館(久慈城・新町館)を築いて居城とし、備前守信実と称した。その養父は久慈修理助治政という。そのころに(文明年間一469〜87)南部光信、後の津軽藩(大浦)の祖が久慈より逆に種里(西津軽郡鯵ケ沢)に入部している。そのとき既に慈光寺は久慈城の西側の沢を隔てて建立されていた。それ以前も隣地にあり山口寺、山口道場ともいわれ時宗の寺であった。久慈氏も南部の臣であり、七戸氏、九戸氏も南部を祖とし親しい関係にあった。九戸政実の弟、政則は久慈直治の養子となっている。宗家である三戸南部の後継者選びと、豊臣秀吉の小田原進攻めによる法領安堵に対して不満を持った天正19年(1591)8月25日の九戸左近将監政実は反攻の狼煙をあげた。久慈中務直治と久慈備前守政則は九戸側五千の将兵の中にあり、九戸城に籠城し、奥州再仕置軍の豊臣秀次、蒲生氏郷、浅野長政や三戸南部二十六代信直の7万5千余(10万ともいう)の軍勢と戦い、1週間もすさまじい攻防を繰り広げた。しかし、九戸政実の菩提寺であった長興寺(九戸郡伊保内村)の薩天和尚の「九戸党、天下に逆するの意非ず、その旨関白殿に申さば死罪、流刑に及ぶまじ」の甘言をいれて開城。九戸政実、久慈直治ら降将8名は9月20日、伊達領栗原郡三迫岩ケ崎稲屋敷で刎首された。戦いで捕虜となった150名も、城に残った五千の兵と子女も落城と共に仕置軍によりことごとくなで切りにされている。直治は38歳だった。
 乱ののち、久慈城は破壊された。久慈氏の菩提寺であったため慈光寺もその余波をうけ一宇残らず灰燼に帰して後、法灯護持のため大野村の蒲ノ口の寺屋敷をはじめ、久慈郡内の各地に草庵を結ぶのみとなってしまった。
 天正20年(1592)南部信直は領内の支城の破却を豊臣秀吉に報告しているがその中に久慈城も含まれている。
 九戸の乱に病を理由に加わらなかった直治の弟治光は、下閉伊郡宮古摂待村も領地を分けられ久慈の血筋を伝えていた。寛文4年(1664)南部藩は二分割され、南部直房により新たに八戸藩(2万石)が設けられた。その時の久慈代官に治光の嫡男、久慈修理春吉が居り、大川目が摂待氏の知行地になったことや久慈氏の菩提寺であった旧縁によりその外護を得、慈光寺は以前の大川目の久慈城跡に再興されている。
 しかし、当寺は不幸にも宝暦13年(1763)3月19日、安永7年(1778)7月10日の2度にわたり火災に遇い、旧記を焼失している。

県内の時宗の流れ

■一遍上人の足跡
 享保17年(1732)書上げと思われる『八戸御領内寺院由来』によれば当寺は梅喜院成天和尚によって開山された、としているが、開山の時の仁安3年(1168)は藤原氏二代基衡の治世であり天台宗の全盛時代であった。遊行二祖他阿真教上人の勧めで改宗したとされる永仁4年(1296)の時の僧侶と思われる。
 時宗の開祖一遍上人は弘安3年(1280)岩手県江刺郡まで布教の足を延ばし、現在の北上市稲瀬安楽寺へ立ち寄り、祖父河野通信の墓参(聖塚)をしている。河野通信は伊予国(愛媛県)の豪族で、源平壇ノ浦合戦において、水軍を率いて源氏に加勢し、合戦の勝因をつくった。戦功により源頼朝に重用され伊予の守護となったが、承久の乱で上皇方に加担したため、奥州江刺に流されその地で没している。聖塚ができて五十八年後に孫の一遍智真が訪れたことになる。石鳥谷町寺林の光林寺はその時同行した、従弟の寺林城主河野通次改め、宿阿弥の開基とされる。
■慈光寺開山
 その後、遊行二祖の他阿真教上人が永仁4年(1296)に久慈で慈光寺を、乾元元年(1302)花巻で常楽寺を開山し、四祖の他阿呑海上人が嘉暦2年(1327)東磐井郡藤沢で藤勢寺を、正慶2年(1333)三戸で教浄寺を開山している。その四祖の開山した相州の清浄光寺(神奈川県藤沢市)を時宗の本山(遊行寺)としている。甲州から源氏の流れをひく鎌倉武士として南部一族は浄土宗寺院を菩提寺として三戸、八戸、久慈地方に支配を強めていった。
 時宗の本寺、清浄光寺の上人は代々全国を遊行することを常としていた。盛岡・八戸などを訪れた際には県内の時宗の寺々の住職や南部藩の家臣も同行している。盛岡南部藩の菩提寺もずっと時宗の教浄寺であった。

明治以降の慈光寺

 明治初年の廃仏毀釈により、南九戸郡一帯に八百余戸の檀徒の香華所であった慈光寺は一挙に衰退、境内の牛頭天を八坂神社と改め神社として存在したがやがて荒廃し、大同2年(807)と銘のあった貴重な仏像や美術品のみならず山林・田畑も失ってしまった。
 しかし明治13年(1880)1月13日、元檀徒の藤森廣吉氏ら182名の願いにより、「寺名復興願書」が提出され、遠野の常福寺、盛岡の教浄寺のご尽力を得て再建され今日に至っている。
 数度の火災、苦難により開基以来の由来を知るものは皆無に等しいが、わずかに当寺58代阿快輪和尚(嘉永2年・1849年入山・盛岡教浄寺快全上人資)の記録により昭和43年(1968)で開山八百年であることが明らかにされている。